あれは二十代もはじめの頃だったか。
西日暮里のとある雑居ビルに邦楽バーなるものがあった。
当時の私は三味線に狂っていて、声楽で入学した大学のゼミを棒に振り、昼夜問わず邦楽部の部室に入り浸っていた。
音楽学の先生に拾われてからくも卒業はできたものの、兎にも角にも三味線。
そのバーでは、楽器持ち込みで他のお客様と飛び入りでお手合わせ願うことが可能だった。
しからば試してみんと、三味線片手にそのバーにはせ参じたのである。
青白い男が居た。背が高く、恐らく二十代。
隣には男と談笑する妙齢の浅黒いおかっぱ頭の女。
男が何を着ていたのかは失念したが、女は着物であった。
親子にしては年が近く、恋人にしては何か距離感がある。
そのようなことはまあどうでも良く、わたしは誰かと曲を合わせたかった。
男はおもむろに「三味線、弾くんですか。僕は尺八やっています」と話しかけてきた。
〈続く〉